論点 議論 問題点 論理展開 心理
残虐映像だとか、日本人が殺されてなんとも思わないのかとかという趣旨のをよく見かけるけれど、論点が違うんじゃないかなぁと。残虐映像観て*1意識が変わったっていうのはそれまでどういう意識だったんだ? その結果が「日本人がこんな殺され方するなんて」っていうのはまた頭痛い。
じゃあ、日本人じゃなかったら良いのか?
僕はどういう場所か承知で行ったんだからギャーギャー騒ぐなと思う方。自己責任と云う言葉だけを投げる気は無いけれど、政府がどうとかって話だけを繰り返すのも、当人が可哀想だと云う話だけを繰り広げるのもナンセンス。
酔っ払って調子に乗って真冬に冷たーい河に飛び込んだ。
露出度が高すぎる格好で"そういう事"で有名な裏道と"承知で"歩いてレイプされた。
肝試しだ根性試しだと言って筋の事務所に調子こきに行ったら。
峠の難所攻めてて運転誤った。
他諸々、実例はわんさか。
誰かにそういうことやらされたというんじゃなければ全てこれらは条理の内だ。
誰かに仕向けられた不条理、天災や突然の人災その他災害じゃない。
フロンティアを目指した人々。
信ずる神の教えを広めようと信念持って危険な地へ向った宗教家達。<>br
こういう人達の報われない最期。
それとさっき上げたようなもの。
それぞれ同じと思う? それとも何か個々へ違う感想抱く? 望まぬ非業な最期かもねぇ。でも条理どっちも条理の内。
そこいらを先に考えた上でもう一度最初の問題考えてみよう。
僕は後半の人達には人間の心理の学習の一環も含めて「悔いは無いかい?」と訊いてみたい。でも前半の人達にはそれとか「満足か?」って言葉投げたら僕に物投げられそうやん?
あー、結局自己責任に近い話してるな。
日本の政府の対応の方向性は意見難しい。予想出来る事ではあるけれど、出来たら……って思いもやっぱりあるわなぁ。それが日本人の為じゃなかったとしてもそう思ったやろう
神の慈愛の下人々は平等なんですなんて寝言は要らないが、日本人が殺されてどうとも思わないのかという議論展開は止めて頂きたい。積極的に参加もしてないし、好んで見に(あんなん読みにでもないわ)行くわけじゃないけれど目につくところあちこちでやってんだもんなぁ。
あんた達は全く同じ事になった他国の人がいてそれを知った場合どう思うんだ?
僕は酷いとか辛かったろうとは思えても可哀想とはあまり思えない。
それなら戦中に取り残されて逃げられなかった人々や、いっそ人外のもの達の方が可哀想だ。不条理だもの。進んでそこに居たわけでもなく、離れたくても離れられなかったりだもの。
議論は盛大にやりませう。
何の議論もせず、自分と趣旨の合わない論旨を繰り広げる人を見て見下すような事しか出来ない(たまにじゃなく、常にそれしか出来ない)ような奴はそいつこそが馬鹿だ。
人が何故にそう考えるのかを知るのはとても有意義だと思う。結局自分とは合わない意見でもそこに辿り付く過程やそういう思想がある事を知り受け入れる事は少なくとも僕にはとても有意義だ。
何か意見をぶつけるときに直感や生理的にそうなんだという人も、掘り下げると大体において背景があるものだし、傷つけない限りはそれを知るのは本人にも有意義な事がある、時には傷ついても知る程価値があることもあった。
誹謗中傷罵り合いではなく、議論は良いもんだ。
はて、結局何が言いたかったんだ?
*1:興味無いので観てませんよ?